沼津花火旅①|新宿から小田原、そして東海道線で沼津へ――アジフライとミカンのかき氷、花火の自由席を確保するまで
新宿の朝は、通勤と行楽が混じり合う独特のざわめきがある。改札を抜け、小田急線のホームへ向かうと、ホーム端に積まれた広告ラックの紙の匂い、発車を知らせるチャイムの短い旋律、行き先表示の電光掲示—それらが一気に「旅のスイッチ」を押してくれる。今日は日帰りで沼津の花火大会へ。工程はシンプルだ。新宿から小田急で小田原へ、そこで腹ごしらえをして東海道線に乗り継ぎ沼津へ。夕方に自由席を押さえ、夜は花火を見てから戻る。頭の中でその順序をゆっくりなぞりながら、揺れの少ない後方の車両に乗り込んだ。

小田原までの車内は、週末の朝らしい穏やかさが漂っている。窓ガラスに頬杖をつく学生、行楽の荷物をコンパクトにまとめた家族連れ、イヤホンを耳に差して目を閉じる人—それぞれの「これから」が静かに脈打っている。停車駅をいくつか過ぎ、車内の空気がゆっくり暖まってくると、体も次第に旅の温度へと馴染んでいく。目的地のことをあれこれ考えすぎず、ただ「小田原でアジフライ定食」という具体的な目印だけを心の中心に置いておく。旅先での幸福は意外と単純だ。
小田原に着いて、駅を出た瞬間に感じる潮の香りの淡さがいい。賑やかすぎない、どこか落ち着いた空気感が胃袋をやさしく刺激する。向かった店は肩肘張らない定食屋。卓上の醤油差し、少し年季の入った木のテーブル、昼前の静けさ。注文したアジフライ定食は、待つことしばし。衣は薄くきつね色、箸先で触れるとサクッという乾いた手応えが返ってくる。口に運べば、表はカリッと、内側の身はふっくら。熱で閉じ込められた旨みがふわっとほどけ、白飯がぐいぐい進む。味噌汁は塩加減が丸く、漬物の酸味が軽やかに味を切り替えてくれる。奇をてらわない組み合わせなのに、旅のスタートを整えてくれる説得力がある。食べ終えた頃には、頭の中にあった「これから」の輪郭がくっきりしてきて、体も心も良い意味で軽くなる。
会計を済ませ、改めて時計を見る。ここから東海道線に乗り換え、沼津へ向かう。乗り場の階段を降り、ホームに立つと、列車特有の金属音が遠くから小刻みに近づいてくる。入線の風は柔らかく、肌にまとわりつくほどの強さはない。扉が開き、ドア上の案内表示を横目に座席へ。出発の合図とともに、車輪がレールを掴む音が一定のリズムを刻み始める。そのテンポに身を委ね、外の景色の動きをただ追いかける。乗り継ぎの不安も混雑のストレスも、このシンプルな揺れの中では、少しずつほどけていく。
沼津に着くと、駅の空気が微妙に違っていることに気づく。駅構内の売店のディスプレイ、待ち合わせをする人の声の響き方、改札を抜けた先の明るさ。どれも「海の町」の気配をうっすらとまとっている。花火大会までにはまだだいぶ時間がある。まずは一息入れたくて、狙っていたミカンのかき氷の店へ向かった。店の前に立つと、冷房の風がドアの隙間からふっと漏れ出し、すでに甘い柑橘の香りが微かに混じっているのがわかる。扉を開けると、響くのは氷を削る軽やかな音。カウンター越しに「ミカンのかき氷」をお願いすると、手際よく器がセットされ、雪のように細かな氷が高く盛り上がっていく。上からたっぷりとかけられるシロップは、ミカンの果実味が前に出た、甘さを引きずらないタイプ。ひと口目、舌に触れた瞬間に冷たさがすっと走り、そのすぐ後にミカンの酸がきゅっと締めて、香りが鼻に抜ける。暑さでぼんやりしはじめていた頭の芯に、透明な風が通り抜けていく感じ。氷が口の中でほどけていく速度とシロップの濃さがちょうどよく、食べ進めても重たくならない。器の底が見えたとき、体の温度がほどよく整って、視界のコントラストが少し上がった気がした。
このまま夜になるのを待っていてもいいが、今日の目的には「自由席を確保する」という大事な工程がある。沼津の花火大会は珍しく自由席が用意されていて、地元の人たちが思い思いに集まる落ち着いた雰囲気が魅力だと聞く。自由席は「場所取りに失敗したらどうしよう」という不安が付きまとうけれど、今年は二人での観覧。結論から言うと、16時〜17時の到着でも、二人並んで座れるスペースに余裕があった。もちろん年やエリアによって差はあるのだろうが、少なくともこの日の自由席は、息苦しくない距離感で場所を選べた。レジャーシートを広げ、荷物を枕にして腰を下ろす。視界を遮るものが少ない場所を選んだつもりだが、夕方の光はまだ柔らかく、空の気配はゆっくりと夜に傾き始めている。
ここでひとつ、現地で痛感した注意点を書いておきたい。会場周辺には交通規制が入り、一方通行でしか進めない区画がある。徒歩で向かう場合でも、意図せず遠回りさせられる導線があるので、案内表示の指示に従うのが安全だ。特に自由席エリアを目指す際、近道に見える道が実は規制対象で、途中で戻されるというロスが生じることもある。焦らず流れに合わせる、これが一番の近道だと途中で悟った。
そしてもうひとつ。風が強い日には、シートの固定が必須だ。夕方の時点でも、レジャーシートがふわりと浮く瞬間が何度かあった。ガムテープで四隅を押さえる人もいたが、地面の相性によっては剥がれてしまう。そこで役に立ったのが、ペグ(固定用の杭)。私は沼津駅のCanDoで数本購入し、四隅と辺の中点に打ち込んだ。これだけで風のストレスがほとんど消える。荷物の置き方を工夫するよりも確実で、座っている間に何度も位置を直す手間も省けた。会場の空気は穏やかだが、自然の要素は容赦ない。準備の小さな工夫で、滞在の質は大きく変わる。

場所が決まり、ペグも効いて、ようやく肩の力が抜けた。周囲は家族連れ、友人グループ、カップル、そして一人で静かに本を読む人まで、さまざまだ。みなそれぞれの時間を持ち寄って、同じ方向を向いて座っている。誰かの笑い声、氷のカップが触れ合う音、遠くから聞こえる試し打ちのような小さな破裂音。夕方の空気はすこし湿り気を帯び、肌を撫でる風がときどき気まぐれに方向を変える。シートの端がわずかに浮いたが、ペグはびくともせず、頼もしい。自由席の良さは、「自分たちのペースで構えられること」だ。席の形も距離感も自分たちで決められる。お金では買えない、居心地の設計ができる。
日が落ちるまでの時間の使い方は人それぞれだ。私は水分を取り、軽くストレッチをして、帰りの導線を頭の中で確認する。花火の余韻が消えないうちに駅へ向かうには、終わった直後に早歩きで会場を離れ、駅に向かう群れの流れに迷いなく乗ることが肝心だ。大切なのは「躊躇しないこと」。その小さな心構えが、最後の最後で効いてくる。空の色が群青を深め、会場のざわめきがほんの少しだけ密度を増やした。いよいよ、夜の部の幕が上がる。

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